「べた凪だよ。海が池みてぇだぁ」
丸十丸の小菅船長の声が、静かな小網代湾に響き渡る。船酔いをする私は、乗船を迷っていた。と、丸十丸のアイドル綾ちゃんが、爽やかな笑顔で手招きする。今日は…乗らねばなるまい。『食楽』の編集者が、小さなカプセル瓶をそっと手渡す。酔い止め薬だった。
暑さで海水が蒸発しているように思える。海上に立ちこめる霧で、視界5メートルの世界に、よその船が幽霊船のように現れては消えていく。ようやく霧が晴れた、その時だ。遙か遠くの鳥山が、水しぶきを上げながら近づいてくる。驚く間もなく、我々は轟音の真っ只中にいた。シラスの群れにカツオが右往左往し、その上でカモメが乱舞。その鳥山を、轟音に包まれ人が血眼で追いかける…。
やがて漁業者がパヤオと呼ぶ、「城ヶ島沖浮魚礁観測ブイ」が見えてきた。城ヶ島の南西沖約8キロと聞けば、伊豆大島に近い。霧が出てきて、釣りが始まった。小型のシイラが釣れている中で、船酔い男はそろそろヤバい感じ。生あくびが何度も出る。むぅ横になりたい…。と、
「ギャアー、コン畜生!」
見ると、綾ちゃんがダイワの大型リールにしがみついていた。それでもN(私)は動けない。「頑張れ!」「なんだ?」「シイラでもマグロでもなさそう」。酔ったなどと天を仰いではいられない。
近づくと、3メートルはあろうヨシキリザメと格闘中だ。張り詰めた緊張感の中、大人の手を借りず見事に釣り上げる綾ちゃん。疲れ切った腕を押さえて「やったーッ」。高校二年生になった、彼女の笑顔にかなう酔い止め薬はない。
(左) |
これからのシイラ釣りに思いを馳せるのか、船酔いが不安なのか。 |
(右) |
酔ってしまった西潟氏。 |
厨房は釣り宿の3階をお借りしている。小網代湾を見下ろす、風通しのいい部屋だが、午後の日差しは酷暑である。缶ビールを手にすると、つい世間話が始まってしまう。
N「Uさん、鳥取にいたころはシイラ漁をしていたんだよね」
U「シイラづけ漁、といって孟宗竹を束ねたパヤオを、沖合に浮かべるんだよ」
N「パヤオって、沖縄でいう魚を寄せる魚礁だね」
U「そう。何十匹と集まるシイラを漁網で巻き捕るんだな。本場のシイラ料理を教えてやろうか」
ようやく腰が上がり、U氏が厨房に立った。シイラ独特の下ろし方は、見ていて小気味がいい。数本のシイラがアッという間に皮を剥がれ、三枚に下ろされた。
U「ヌメリが強い細かなウロコには、雑菌がつきやすい。金タワシで洗っても、生皮を身に触れさせないこと。シイラ料理は下ごしらえ用まな板を別にするほどの心遣いが必要。加熱するなら別だけど」
N「なるほど…南方系の大型魚には、シガテラ毒の報告もあるから要注意だな。で、この下ろしたての片身は、使っていいの?」
元シイラ漁師のU氏は、すっかり料理熱に火がついた。後手に回ると手持ちのレシピが取られそう。
まずは「洗い」から。氷水を作っておき、サク取りしたシイラを薄造りにして、素早く沈めていく。切り身は一瞬白じみ、「冷たい!」と言わんばかりに縮こまる。水気を拭き取り、辛子酢味噌で食す。
今度はU氏が厨房へ。
U「シイラ料理には、塩と玉ねぎが欠かせないのだ」
サク取りした片身は、軽く塩をして傍らに。玉ねぎをみじん切りする間に、魚は水分を出して赤みを増したように見える。塩で締めた片身は、玉ねぎとほぼ同じ大きさに叩き和える。U氏はちょいと味見をして、
U「旨い!これでいい。料理名?塩なめろうウエカツ流はどう?」
漁師料理で知られる「なめろう」とは、魚を味噌と長ねぎで舐めるほどよく叩いたもの。これは塩と玉ねぎだから、ウエカツ流だ。なるほど玉ねぎの甘みが効いている。味噌味にはない、清々しさもいい。
綾「食べたい…」
それまでずっと私たちの調理をお母さん、妹と一緒に見学していた綾ちゃん。椅子に立ち上がってU氏の手元を見つめていた。
カメラ「撮影が終わったらね」
綾「やった!」
塩なめろうをもっと叩くと粘りが出る。U氏曰く「水溶性タンパク質が塩と結合して粘りが出る」とのこと。それを団子状に丸めてつぶし、フライパンで焼く。料理名は、塩さんが焼きウエカツ流。漁師料理では「なめろう」を焼いて、「さんが焼き」と言う。
シイラのアラを使って味噌汁を作り出すと、周囲にはカメラマンしかいない。みな撮影台代わりのテーブルを囲み、撮影が終わったシイラ料理を黙々と食べている。
母「漁師の妻でいて…シイラを刺身で食べたことってあんまりないんです。小型でも十分に美味しい」
綾「初めて食べました。明日から、またシイラを釣るぞー」
今年はシイラが豊漁で、相模湾では初夏に1日何千匹も定置網で捕獲された。それでも漁港が湧かないのは、売れないからだ。漁師の卸値を「浜値」と言うが、1キロ30円にならない。釣りでは人気のシイラが、なぜ食卓で嫌われるのか。魚屋に並ばないのはなぜだろう。九州や山陰地方で食習慣があるのは、シイラの旨さを知っているからだ。関東人は知らないのに嫌っている。悲しいことだ。
U「魚に貴賤なし。関東の魚食普及活動は、開拓者精神が必要かも」
綾「私も、頑張る」
頼もしい跡継ぎが、シイラの味噌汁に感動している。
アルミのタワシで尾から頭に向けてこすり、ウロコを落とす。魚体表面の銀色部分にはグアニンという成分があり、食あたりすることもあるのでしっかり落とす。
エラの後ろ側から包丁を入れ、腹側に向かって切る。ただし頭は切り落とさない。
腹の方まで切ったら、内臓を傷つけないように肛門の手前まで切る。
肛門手前まで切ったら、魚体をひっくり返し、肛門手前からエラの下側まで内臓を傷つけないように切っていく(3の行程を逆に切っていく)。
エラの下側から頭の方まで切り(2の行程を逆に切っていく)、頭を切り落とし、お腹を開いて内臓を取り出す。胃、アラは味噌汁の具になるので捨てない。
内臓を取り出したあとの血合い部分を、歯ブラシやささらでこすり、きれいに洗い流す。
魚体に付着した水分が臭いのもと。3枚におろす前にキッチンペーパーや布を使って丁寧に拭き取る。
骨にそって包丁を動かし、身を骨から切り離す。反対側も同様に骨と身を切り離す。
2つの身に付いている腹骨をそれぞれ切り落とし、3枚おろしの完成。生食する場合は、頭から尾に向け皮をむく。身にあたらないよう注意。包丁、まな板は途中で何度も洗い、銀色のグアニンがシイラの身に着かないように注意する。