鏡のように凪いだ海から、時折なんの前触れもなくトビウオが飛び出し、水面をホーバークラフトのように滑空していく。
活けイワシを付けたラインが突然、水中に引き込まれる。リールのベイルを返したウエカツの前方でブルーの魚体がジャンプする。
シイラだ!!
このシイラ、実はウエカツにとって、忘れがたい魚だったという。
「大学で魚の研究者を目指していたときにさ、なんだか自分が学校でやってることがものすごく狭い世界だって感じてね。大学の自治会やったり、農家で働いてみたり、色々やったんだけど、そんな中で漁船に乗ることにした。
船長が岩永善市さんという人でね。この人が人格者だった。文学全集を愛し、日々の海や魚を短歌に詠む人でね、オレは住み込みで寝食をともにして、いろんな話を聞いたよ。
ある日、オレが、『船長、漁師は好きか?』って聞いたら、答えたよ。『好きだよ、毎日海に出ても、毎日違うことがある。あばら家に住んでもご飯が食べていける。オレの天職だ』って。
オレは”天職”って言葉をリアリティを持って聞いたのは初めてだった。人間、人生を変える人に3度会うというけれど、この人は間違いなくその一人だった」
そしてその時の漁船こそが、シイラ漁船だったのだ。
まさに今のウエカツのルーツは、このシイラという魚にあったのだ。
それにしてもこのシイラという魚、東京を中心とした東日本ではあまり食卓にのぼることはない。
釣りのターゲットとしては、ここ数年相模湾などでも非常にポピュラーになってきているが、ルアーで釣ってもリリースが多く、持って帰らない人も多い。というのが半ば常識と化している。
「でも九州では普通に食べる。島根や四国でも食べる。東日本では人間は、この魚の素晴らしさが知られてないんだねえ!」
だからこそシイラの旨さを全国的に伝えるため、ウエカツは相模湾にシイラを釣りにやってきた。
「シイラは黒潮にのってトビウオとともにやって来る……なんていうとロマンチックだけど、要するにトビウオを食いたくて一緒にやってくるんだな」
シイラが九州に現れるのが6月頃、そして真夏には相模湾にも大挙して押し寄せる。
シイラと聞くと、そのなんともトロピカルなスタイルと体色から、せいぜい関東あたりまでしか北上しない魚だと思ってる人が多いかもしれない。
「ところが北海道の南部でも獲れるんだ。南方の魚は北上するほどに脂を乗せるね」
なんとシイラは日本全国に出没している魚だったのだ。
そんなシイラが船上に次々と釣り上げられる。刹那、シイラが暴れて身が疲れることを防ぐために、ウエカツが特製の締め具で瞬殺していく。
そして続けざまに血抜きに取りかかる。
「今日は船の上で、本当のシイラの美味しさを刺身で味わわせてあげるからさ」
そう言うとウエカツは、血抜きの終わったシイラに、もはやこの連載の名物といってもいい“名人芸といえる神経締め”を施してから、海水氷に浸した。
神経締めした魚は体温が一気に上がるので、こうやってすぐに冷やさなければいけない。ただし、
「神経締めした魚はズ〜ッと冷やし過ぎちゃいけないんだ。このクーラーの中の温度は7度くらい。冷蔵庫の野菜庫くらいだよね。この温度が、魚をさらに旨くする」
船上でのシイラの入れ食いがピークを過ぎた頃、適度な温度に冷えたシイラをウエカツが捌きだした。そして皿がわりのフライパンに刺身を盛り上げる。
極々薄いピンク色の身がツヤツヤと輝いている。
「この身に照りが出ているのが旨みがのってきた証拠だね。さぁ食べて食べて……って箸を持ってくるの忘れちゃったか」
しかし船上の誰もが、見るからに食欲をそそるシイラの刺身の魅力の前に、箸など使うことも忘れ、手づかみでシイラを頬張りだした。
そして口々に出る言葉は、このひと言に尽きていた。
「ウマイッ!! 」
確かに、これだけ旨い魚が、東日本ではほとんど市場に出回らないというのは変な話だ。