上田勝彦が気仙沼に来るのは、震災後すでに数回目となっていた。
この日本屈指の水産業の街は、あの3月11日、大津波によって深い爪痕を残されていた。
JR大船渡線の終着駅である気仙沼駅(本来の終点である盛駅までは未だ不通なのだ)は、気仙沼湾の最深部から1キロ以上内陸部にあるため、一見、被災地とは思えぬ整然さを見せている。が、湾全体を見渡せる港の岸壁へと移動した途端、その光景は一変する。
港前の数キロ四方に及ぶ街一体が、津波ですべて流され、消えていた。ほんの少しの建物の土台と、数本の曲がった照明灯を残し、まるでその地区全体がタイムスリップしたかのように、ゴッソリと消失しているのだ。
これが津波の恐ろしさなのだ。
しかし、その恐ろしさを超える希望がこの街にはある。復興にかける市民のバイタリティーだ。
消失したように見える街の外れには、プレハブでできた復興商店街や復興屋台村が営業を始め、多くの人を集めている。
すでに水揚げの再開された漁港には、サンマやマグロ、カツオを追う大型漁船が出入りをしている。折しも今日はサンマ船の出港式だ。
「みんながんばってんだよ」
荒れ地に草木が芽吹きつつあるようなその光景に上田がつぶやく。
しかし、上田の今回の最終目的地はここではない。気仙沼からフェリーで25分。気仙沼湾の湾口部に浮かぶ島・気仙沼大島である。
環境省が選定した『快水浴場百選』の中でも特に素晴らしいとされる"海の部特選"に認定された"小田の浜海水浴場"や、歩くと砂が「キュッ、キュッ」と音を立てる、非常に珍しい鳴き砂の砂浜"十八鳴浜(くぐなりはな)"など、豊富な観光資源と漁業の島である。
この気仙沼大島も震災では甚大な被害を受けた。島の中心を貫く標高の低い地区を津波が駆け抜け、島は一時期、二分され、本土から孤立した。
フェリーの接岸する浜の浦の岸壁には応急処置が施されているが、島の反対側の田中浜には、膨大な量のガレキがうず高く積み上げられていた。旅館や民宿もその半数近くがまだ再開にいたってない。
そして上田がもっとも気にかけていることがある。
放射能の問題である。都会には依然として被災地の食材はいらないという声がある。
「100ベクレルという数値が、世界的に見て、どれだけ厳しい数値か、みんな知らないんだね…」
歯噛みする上田。その厳しい基準値以下の食材しか市場に流通することはない。しかし、にもかかわらず、デリケートに拒絶する声が消費地にはあるのも事実だ。
観光と漁業で成り立つ被災地の島にとって、これは深刻だ。食べてくれなければ、捕る意味もない。