ヒラメではなかったけれど、値千金のサバにうれしい笑み
船長の「6から7メートル」といった指示に従って、その長さに糸を出す。船長が言う数字は、イワシの群れがある深さを意味しており、うまく群れをとらえると、10センチほどのイワシがおもしろいように釣れる。大きな群れに遭遇すると、10人の釣り人が乗った船はイワシ祭りとなる。小さなサバもよく釣れている。
シェフも快調だ。釣り上げたイワシを外し、魚のいる棚に合うようラインマーカーを意識しながら、ゆっくりと再投入している。
「いつも僕は始めのうちに釣れて、その調子でなんとなく続けていくんだけど、他の人が釣れているのに僕だけが釣れない状態に陥り、何が原因かわからないまま時間切れ、というのがパターン化してるんだよ。今日はそうならないように、一つひとつの動きを慎重にやろうと思ってさ」
なんという向上心だろうか。「みんな適当にやり続けているけど、相変わらずガンガン釣れてますよ」とは言わないでおこう。
1時間半ほどでかなりの数のエサを手に入れることができた。いよいよヒラメ釣りのスタートだ。仕掛けをヒラメ釣り用に付け替える。ヒラメとカレイは似ているが、ヒラメの口はカレイよりもずっと大きく、獲物にダイナミックに喰らいつくらしい。大きな針を生きているイワシの下顎から上顎に通し、海底〜1メートルくらいのところで泳がせる。上に付いている目で獲物を探しているヒラメは、イワシが視界に入るとジャンプするように飛びかかる。初めのアタリ(竿先が動いたり、手元に動きを感じること)で合わせても外れてしまうことが多いため、少し待ってグイッとしっかりした引きが感じられてから巻き上げることが肝要だ。
大忙しのイワシタイムと打って変わって、ヒラメタイムは静かに始まった。アタリを感じる人も少なく、仕掛けを引き上げ、喰われて頭だけになったイワシを見て、「さっきのがアタリだったのかなあ」と首をかしげている人がいる。竿を握ったまま船を漕いでいる人もいる。心地よい陽光を受けながら穏やかな時が流れていく。
――シェフ、お店ではヒラメを使うことはありますか?
「青森から魚を送ってもらっているんだけど、青森はヒラメの名産地だからね、よく使ってるよ。ヒラメの頭と骨で作ったコンソメに身をくぐらせて湯ぶりする。それにバルサミコ酢や季節の柑橘を搾ってちょっとかけてあげると、ヒラメの旨みがものすごく感じられるんだ。ヒラメは煮ても焼いても生でも美味しいし、捨てるところがない優れた食材。今回はもうメニューも考えてあるから、あとは釣るだけなんだけどなあ。ホントにいるのかな」
刻々と時間が過ぎるにつれ、船上のみんなの気持ちは「自分が釣りたい」から「誰でもいいから釣ってほしい」へ変わっていった。そんな時に、シェフの竿が強く引いた。さすがシェフ、役者が違うねぇとみんなの視線の先に揚がったのは、宝石のようにキラキラと輝く……サバだった。
結局、この日の釣果は、連載初の坊主。いや、ヒラメは釣れなかったが、よい型のサバが3本も釣れた。こんなこともあろうかと、イワシと小サバもクーラーボックスに大量に確保しておいた。
ヒラメのエサ用に釣り上げたイワシと小サバ。結局、人間が美味しくいただきました
かくして、今回の材料はサバとになった。もともとヒラメを狙いに行ったことをこの際忘れてしまえば、なんの問題もない。
「お世話になった『庄三郎丸』さんの他の船はみんな釣れてたから、たまたま運が悪かったんだ。こんなこともあるよ。ていうか、このサバ、最高だよ」
シェフ、いつもながらポジティブ思考、ありがとうございます。
救世主のサバは八面六臂の活躍を見せた。サバで作ったツナのマリネサラダをのせたクロスティーニ(小さなトースト)は、夏のランチに最高の一品。イタリアの泡がめっぽう合う。
サバはつみれにもなっていた。サバの骨、ハマグリでとった出汁にそば粉と練ったサバのつみれ、夏野菜がたっぷり入ったイタリア風冷汁。涼やか、軽やか、でも深〜い味わい。
「やっぱり〆サバは外せない」と、お米のサラダの上に、絶妙な〆具合の〆サバが鎮座していた。サバの出汁をたっぷり吸ったお米、桃、〆サバを一緒にほおばれば、〆サバ好きは感涙必至。サバって、ポテンシャル、こんなにあったのか。
「ヒラメを狙っていると、サバやイワシは外道扱いになっちゃうけど、こんなに新鮮なサバやイワシはヒラメに負けないぜいたくな食材だよ。ヒラメをリベンジする楽しみもできたし、とてもいい経験になった。イワシでアンチョビを仕込んだから、それが出来上がる頃にヒラメを仕留めて、アンチョビソースの料理してやろうと思ってるんだ(笑)」