黙々と仕掛けを整え、投入を繰り返す有馬シェフ。この日、イカの気配はなかなか感じられない。シェフの真剣さにも拍車がかかっていく
夜空が次第に白んでいく早春の朝。イカ釣り船が出る港を目指して三浦半島を南下する車中では、イカの話に花が咲く。
――シェフ、イタリアではイカをどうやって食べるんですか?
「日本でも有名なのはイカスミ料理だよね。パスタとかリゾットとか。フリットもよく食べるよ。イタリア人もイカが大好きなんだけど、日本ほど調理法は多彩ではない。それは日本のように新鮮なイカが流通していないことが理由じゃないかな。イカは鮮度が落ちるとすぐに甘みがなくなって、特有のクセのある香りも出てきてしまうから」
トスカーナでの修業時代、有馬シェフはあるイタリア伝統料理を口にした瞬間、日本を思い出したという。
「トスカーナは新鮮な魚介が手に入るところで、そこでインツィミーノっていう煮込み料理を食べたの。イカをワタもスミも一緒にビエトラという青菜とワインヴィネガーを入れて炊いたものだったんだけど、これをひと口食べたら途端に日本が懐かしくなってね。里芋とイカの煮物とか、日本人になじみ深いイカの風味がほのかに感じられたからだと思う。日本人って世界一イカが好きな国民だと思う。僕なんか鮨ネタではイカが一番好きなくらい。あ、鮨食べたくなってきちゃったな。市場で鮨つまめるところない? 沼津港みたいに」
残念ながらこの時間、鮨は無理そうです。今日の釣果で、イカの鮨を思う存分食べましょう。
「イカは天ぷらも最高。中心部がレアになるように仕上げた天ぷらは甘くてたまらない旨さ。イカって調理法でいろんな表情を見せてくれる魅力的な食材なんだよね。船宿の人にも、普段どんなふうに料理しているか聞いてみよう」
船出前、船宿では女将さんが「寒いでしょ」とお餅を焼いて振る舞ってくれた。それをはふはふとほおばりながら、シェフは地元イカ料理のリサーチ開始。
シェフ「この辺ではイカをどうやって食べるんですか?」
女将さん「やっぱり刺身だねえ」
シェフ「へえ。他には? 地元ならでは食べ方とかありますか」
女将さん「んーー。やっぱり刺身が、そりゃ一番だよねえ」
シェフ「……そうですよねえ」
――シェフ、リサーチどうでしたか?
「調理するのがもったいないくらい新鮮なやつを食べてるってことだ、きっと。さ、釣ろう!」
港から沖へ50分ほど。ようやくスピードを落とした船は大揺れに揺れていた。身を投げ出されないように手すりに掴まって船長の釣り開始の合図を待つが、なかなか声はかからない。船はまたスピードを上げ、荒波の海上をぐるぐると回る。イカの群れを追いかけているのだ。イカの群れは常に移動している。ターゲットとなる群れを見つけ、先回りして糸を垂らす。そうしないと、いくら粘っても釣れることはない。この日は群れの一つひとつが小さく、また魚影も薄いという。
ようやく初投入。イカ釣りの仕掛けはユニークだ。イカ専用のプラヅノと呼ばれる擬餌針を5〜8本つなげ、連結させた筒の中に仕込む。重いオモリを投げ入れると、筒からスポポポン!と勢いよく仕掛けが飛び出し、海底へと沈んでいく。これで水深200m近くのヤリイカを狙う。
釣りとなるといつも真剣なシェフだが、今日の集中力は特にすごい。というのも、仕掛けを海底へ落とし、それを引き上げるだけでも数分ほどを要するわけだが、この日は常に群れを追って移動しなければならないため、1カ所のポイントでの投入はほぼワンチャンスの状況だ。1投にかける気合が違ってくる。
「アタリがわかりにくいね。グッと重くなったのがアタリなのか、オモリが揺れたせいなのかが判別できない。1投を大事にしようと思ってつい粘ってしまう。それでだいぶアタリを逃していると思うんだ。ほら、仕掛けにイカの足だけがこんなに残っているから」
ヤリイカは普通にひとりで何十杯も釣れるらしいですよ、なんていう編集者の事前情報をどんぶらこと揺れる船の上で思い出し、気持ちが沈みかけていたころ、「やったー!」というシェフの声が響いた。手にはキラキラと美しいヤリイカがあった。
「おもしろいねー。今のも食いついた瞬間はわからなかったなあ。もしかしてと思って上げてみたら掛かってた。これは奥が深いね。さ、沖漬けを作ろう。沖で漬ける本当の沖漬け。これが夢だったんだよね」
魚醤を加えた醤油ダレに生きたままのイカを投入。イカがタレを飲むことにより内側から味が程よく回り、鮮度が長く保たれながら、味わいが次第に増していくという。さすがシェフ、大事そうに運び入れていたタッパーの正体は沖漬けセットだったんですね。抜かりなし。